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松村志保子 発見 には 花華一族の縁が

村松志保子 発見

都会のオアシス 「隅田川」 の地で130年前 「華奢淫猥に流るゝ」と世の中を危惧しました。
129年前・鹿鳴館時代の縁も不思議です。
「100坪の舞踏会・広間は鹿鳴館でした。1000坪「命とやさしさの尊さ」教訓の地共に 130年 昔の出来事です。」
孫・薄田和子が語る真実。「村松志保子驚愕の人生」
村松志保子 調査・研究は 八杉家 一族が残した 数々の証明から。
志保子周辺、村松家は 沼田藩、ご典医(曾祖父・祖父・父 三代、玄庵の名)としての医者魂、「義弟・八杉利雄」・「甥・八杉貞利」 「従妹・山田寅次郎」と志保子の人生は、深い絆で結ばれました。


 

村松志保子 活躍

孫・薄田和子女氏により 明らかにされた志保子の人生一部が判明しました。

  谷中・天王寺に眠る墓誌。

村松志保子 墓誌碑(漢文訳)

  国勢院正四位勲二等小川平吉題額

村松志保子、父は玄庵、沼田藩御典医、母は和歌子

沼田藩々老、中村官兵衛長女、志保子は師も驚く頭の良い子であった。
結婚するも離婚し自立する。
産婆の仕事の重要性を感じ医師から助産の道え、明治十五年安生堂医院を起こし名声広まる。
明治二十一年産婆学校を起こす。
明治二十四年北白川宮 小松宮両妃殿下 露皇帝ニコラス二世から援助を受けます。
明治二十五年安生堂産院特別収容施設開設、慈善的施設です。
東京産婆会本部幹事 第十六支部長を兼任。睡眠時間三時間一生懸命研究仕事しました。
解らないことは無いという程、礼儀作法、書、画、和歌、琴、茶華道に秀れておりました。
父は八十才没、志保子は大正十一年一月二十六日 六十九才没 母が辞世の銘を書きました。
佳域鬱々 既固具安 積善流徳 宣乎子孫
 大正十一年四月 鈴木於兎之助 選 安本孝和書 廣群鶴

 

村松志保子 花華一族

墨田区横網。一千余坪の中に、産婆学校、淑女館、安生堂医院。慈善(無料)妊婦収容所が、ありました。
プレート 碑より 
(実物は タテ 書きです)



 

沼田藩 藩主 土岐頼知別邸(明治維新以降〜)

沼田藩、最後の藩主 土岐頼知は、明治二年藩籍奉還により沼田藩知事、明治四年廃藩置県により沼田県知事、後 明治十七年、華族令にて、「子爵」を賜る。
明治維新後、代替地としてこの横網に約二千坪余の敷地を所有する。
頼知の妹の教育、一族の病気看護のお礼に、約半分の土地を志保子にあげる。
同地に志保子が、医院次いで学校及び特別施療室を開設する。

八杉利雄 一等軍医正(一八四七年〜一八八三年)

明治二年津和野藩、養老館から、貢進生として大学東校(東寮正) (現、東大医学部)に留学。
校長 佐藤尚中、教授試補 長谷川泰、東寮長、石黒忠悳 大教授、松山棟庵(棟庵はシーボルトの弟子で利雄の英語教師)。
明治五年オースティン・フリントのリュウマチ論を、翻訳する。
明治六年文部省へ出仕。
明治七年 陸軍二等軍医正、右示指裂傷論文発表。
初代軍医総監、松本順と会う。
土岐別邸で、華麗な催事、歌会等で、志保子の妹 春子を知り婚姻する。
結婚後は別邸内に居住。
明治十一年大阪陸軍臨時病院にて軍医監・佐藤進、一等軍医正・石黒忠悳と同職場。 明治十四年東京陸軍病院治療課長部下に森鴎外がいた。
明治十五年東亜医学校 設立に貢献。
明治十六年熊本鎮台陸軍病院長となる。
明治二年上京後日本の医学界重鎮の人々と密接な関係が出来る。
同年会議で上京、脳溢血にて急死。
若すぎる死でした。
享年三十七歳。

八杉 貞利 露語研究の慈父(一八七六〜一九六六)

父、八杉利雄、母、春子(村松志保子、妹)横網で誕生。
帝国大学文化大時代、和歌壇で活躍後、上田万年博士の指示で東京外語学校露語科に学び文部省より露語研究留学を命ぜられる。
後東京外語学校大学教授・東京帝国大学・早稲田大学で教鞭をとり、老若師弟に慈父と慕われ、露語学者、ソヴィエト研究者の座右の書「岩波露和辞典」は、八万一六〇〇部発行される。
生後十日で母、七歳で父を亡くし父の親友、石黒忠悳を後見人として育つ。
近年伯母 志保子、伯父山田寅次郎の年譜不詳一部が、貞利の日記で判明、関東大震災の記、ロシア紀行他、貴重な資料である。


山田寅次郎 (一八六六〜一九五七)

志保子の母、和歌子と寅次郎の父、莞爾は姉、弟です。
寅次郎、志保子従妹弟の二人は生涯仲良く、寅次郎の祖父中村官兵衛(幽軒と改名)は、晩年この横網 和歌子の元で暮らす。
明治歌集に歌の詠みあり。
沼田藩 元家老としての威厳で、志保子を見守る。
寅次郎は志保子の安生堂のため薬学校で学ぶ。
その後、志保子の慈愛精神は、寅次郎にも影響される。
トルコ民間大使として多大な貢献をしその後茶道 宗偏流八世家元 山田宗有として活躍する。
昭和五十三年四月 東京歌舞伎座で流祖宗偏が「茶道忠臣蔵・山田宗偏」として上演され、 八世家元の寅次郎と流祖、二人
「ゆかりの人」です。

平成十七年三月八日


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